18 12月, 2013

新国立競技場コンペ審査委員 内藤廣のコメント全文

新国立競技場について様々な批判がある中、コンペの審査委員の一人である内藤廣が批判についてのコメントを事務所HPで公開しています。その全文です。

【建築家諸氏へ】
新しく建てられる国立競技場のことを本当はどう思っているんですか。会う人ごとに聞かれます。講演をすれば、しゃべったテーマとは関係がないのに、この件に対する質問を受けます。何通ものメールもいただきました。こちらとしてはいささか食傷気味ですが、建築界としてはここしばらく例がないほどに関心が高まっているのだと思います。社会的な正義を唱える建築家たちの姿は、しばらく見かけなかったことです。これは是とすべきでしょう。

国立競技場の設計競技については、審査委員の一人である以上、結果に対しての責任は当然のことながら負っているものと思っています。ただし、審査経過とその対応については、明文化されてはいませんが一定の倫理的な守秘義務を負っているはずなので、審査委員長の発言や公式発表を越えた発言は、可能な限り控えたいと思っています。以下に述べることは、現在の全般的な状況に対するわたし個人の見解と危惧です。触れることができる範囲のことと自分の考えを述べ、以後、質問にお答えすることは控えたいと思っています。

設計競技の手続きに関して、いくつか厳しい指摘がなされていますが、短い時間の中での窮余の策であったことを考えれば、充分とはとても言えないまで も、まあまあだったのではないかと思っています。世論喚起を急ぐあまり、広告代理店による誤解を招くような事前の情報発信があったことは反省点です。設計競技全体の在り方に関しては、類似の案件が生じた場合の対応として、今後に活かす議論とすべきです。今回の事例を土台に、より良いものに改善されていくべき事柄だと思います。不備を指弾する声もありますが、普段からこの仕組みを議論の俎上に上げてこなかった自省の弁から始めるべきです。そうで なければ、設計競技なんていう面倒くさいことはやめておこう、ということになりがちだからです。
これは景観の議論にも通じることです。景観を公共財とするなんてまるで意識のないところに、赤白の縞々の住宅が出来るというので話題になったことは記憶に新しいところです。普段から問題意識がなければ、議論は後追いになるばかりです。常日頃が大切です。署名運動を繰り広げている建築家たちは、常日頃から神宮の景観を議論し、それほどまでに愛していたのでしょうか。絵画館の建物をそれほど愛していたのでしょうか。絵画館に飾られている絵画を一度でも見たことがあるのでしょうか。
設計競技でもっとも重視されるべきは、審査過程に於ける公平性であることは言うまでもありません。審査委員会に、特定の意志が外部から働くようでは、審査も何もあったものではありません。この点に関して、わたしの知る限り、外部から働きかける特定の意志は、まったくありませんでした。審査過程で意見の相違はあったにせよ、審査結果は、あくまでも審査委員の責任に於いて、委員長によって取りまとめられたものと思っています。

個性的なザハ・ハディドの案については、建築家諸氏には賛否があるはずですが、あの案の中にある生命力のようなものを高く評価することでまとまりました。最後に決する際、日本を元気づけるような案を選びたい、という委員長のとりまとめの言葉は、委員それぞれに重みのあるものと受け止められたはずです。
あの時期のことを思い出してください。大震災の記憶が生々しく人々の脳裏に残っている時期でした。三陸の復興は先がまったく見えず、福島の原発は危機的な局面が続く迷走状態でした。多くの人が漠然とした不安を心の内に抱えていたはずです。痛みや悔恨が世の中に満ちていて、未来への希望がなかったのです。オリンピックにしたところで、あの時点で東京が招致に成功するとは、ほとんどの人が思っていなかったはずです。わたし自身も招致の可否については半信半疑でした。
招致が決まった今だから言えるきれい事もあります。しかし、あの時期を思 い起こせば、ザハの案に決定して良かったと今は思っています。これは好みや建築的な主義主張の問題ではありません。あの案がオリンピック招致に果たしたであらう役割も思い出すべきです。あの思い切った形は、東京の本気度や真剣さを示すという大きな役割を果たしたはずです。

高邁な論議とは異なる次元で、おおいに危惧していることがあります。それは設計者であるザハのやる気です。建築の設計者であれば誰でも了解できることと思いますが、建物のレベルは設計者の情熱の絶対量に掛かっています。設計者がどれくらいの精神的なエネルギーを投下するのかによって、建築のレベルは大きく変わります。当選したけれど、あれこれ面倒くさいことばかりで嫌気が差し、担当者任せ、実施レベルの設計者に任せっぱなし、という状況が生じるとしたら、あの建物は規模だけ大きい二流の建物になってしまいます。ザハにしてみれば、座敷に呼ばれて出かけていったら袋叩きにあった、という気 持ちかもしれません。そうなれば、それこそ国税一千数百億を使った壮大な無駄遣いです。ザハはソウルで巨大な美術館を完成させつつあります。東京の建物はそこそこでいい、ソウルの建物こそが自分の作品だ、ということになったらこれ以上残念なことはありません。

スペイン北部の街ビルバオに、フランク・ゲーリーの設計によるグッゲンハイム美術館が出来て二年ほどした頃、近くのサンセバスチャンで会議があり、 次の日に訪ねたときのことです。夜になって、地元の建築家たちと会食になったとき、あの建物に対する印象を訪ねてみました。あの建物のことが好きか、というわたしの問いに対して、「好きなわけがないだろう。大嫌いだ」。その後に続けた言葉が面白い。皮肉っぽい笑みを浮かべて、「でも、大成功だ」、と言ったのです。知っての通りビルバオは、いまだにスペインからの独立運動が燻るバスク民族の主要都市です。ゲーリーの奇妙な建物が出来たことにより、世界中から人が来るようになり、そのことはバスクの存在を世界に発信すること になった、というのです。好き嫌いを越えた戦略的な発想だと感じました。われわれもこれに習う戦略的な賢明さを持つべきではないでしょうか。
そのためには、ザハに最高の仕事をさせねばなりません。決まった以上は最高の仕事をさせる、ザハ生涯の傑作をなんとしても造らせる、というのが座敷に客を呼んだ主人の礼儀であり、国税を使う建物としても最善の策だと思うのですが、どうでしょう。

一人の建築家として槇先生が意見を表明されたことには、全く違和感はありません。勇気ある発言に敬意を表します。審査に加わらなかったとしたら、わたしもわたしなりの考えを表明したかも知れません。しかし、ことが署名運動にまで拡がりを見せるとなると、違和感は増すばかりです。さらに、それが組織的に繰り広げられたとなると、看過できないことになります。その意味するところが変わってきます。団体名で提出された署名は、その団体の意見表明となるわけですが、その団体はこのプロジェクトに対して本気で水を差す覚悟があるのでしょうか。建築家の良識とは、その範囲のものだったのでしょうか。 ザハの案が、建築的な議論として深まっていかないことも不満です。あれほど個性的な案が選ばれたのですから、本来なら、建築とは何か、建築表現とは何か、建築には何が可能なのか、というより根源的な議論が巻き起こってしかるべきなのに、語られているのは「分かりやすい正義」ばかりです。
要望書を待つまでもなく、事務当局では規模や予算調整に動いていましたが、現在示されている縮小案は、ずいぶん小振りになり、景観的にも絵画館から見てそれほど威圧感のないものになりました。観客席の肩を流線型の形の中に治めた形態は、審査で目にした他のどの案よりも数段控えめなものになったはずです。

ザハは、東京という巨大都市のアイコンを造る、と言ったわけですから、あまり控えめになりすぎるのも心配です。わたし自身は、どうせやるのなら、この建物に合わせて東京を都市改造する、くらいの臨み方がよいと思っています。大会開催後改修して規模を小さくしたロンドンのオリンピックの会場と比較して、8 万人収容の問題も縮小案の俎上に上がっています。ロンドンには、この会場以外に 8 万人規模の収容人員を持つところが二つもあるわけですから、一概に規模だけを問題にするのは早計です。
東京という都市は、上海、香港、ソウル、シンガポールなどとコンペティテ ィブな関係にあります。新興勢力の前に負け戦が続いています。縮退は麗しい美学かも知れませんが、意欲的な改革無くして、高齢化圧力が増すばかりの東京が都市間競争の負け組になるのは明らかです。個人的な見解ですが、8 万人規模の集客が数多く生まれるような都市になるためにはどうしたらよいのか、そのような東京を造っていくのにはどうしたらよいのか、と考える方が前向きの考え方ではないでしょうか。

もともと神宮外苑は、体力の向上、心身の鍛練の場、文化芸術の普及の拠点として造営されたものです。大隈重信が明治天皇祭祀の場として、森厳な杜とすべし、と言った内苑とは対照的に、明治天皇が好まれた近代スポーツの場として、開かれた場所として造営されたことに始まります。歴史性を問うなら、その発祥は新しい文化を取り入れ育む場所だったことも思い出すべきです。時を経て、絵画館前の並木道など、緑多い都市公園として市民に親しまれてきたのも理解できます。わたしもあの場所がとても好きです。その一方で、都心に あるこの場所の活用の仕方こそが、新しい東京を造る上での成否を握っている とも言えます。

この国では、とかく縮小方向で議論をまとめていく傾向があります。無駄いをやめる、節約が美徳。そちらの方が「分かりやすい正義」になりやすいからです。新しい国立競技場は、その姿形からして目立つという点で分かりやすいターゲットの出現ですが、今現在、掲げられている錦の御旗に依拠している限り、建築の文化に資するような議論には発展していかないでしょう。異議を唱える諸氏は、振り上げた拳をどこに下ろすつもりなのでしょう。国立競技場の建設を止めさせれば満足なのですか、オリンピック招致を見送れば満足なのですか、どこまで成果が得られれば矛を収めるつもりなのですか。そう問いた い。

わたしは、あらゆる論理の手前には感情がある、と思っています。コンペの枠組みを作った官僚的な意志決定のシステムについては、震災復興で相手にされなかった憤懣が渦巻いているはずです。さらには、わたしも含めた審査委員に対する嫌悪もあるでしょう。市井の建築家なのに、権力の片棒を担いでいい気になっている。そういう気分が働いているはずです。そういう無意識に突き動かされた感情が、諸氏の言葉の裏側に貼り付いています。分かりやすい目に見えるターゲットが現れ、そこに噴出する出口を求めているかのように見えます。手前にそうした感情がある限り、批判のための理屈はいくらでも立つでし ょう。神宮の外苑の景観など、いままで一顧だにしてこなかったのに、いきなりそこに正義の根拠を求めるようになる。感情に訴え、署名を求めるには分かりやすい話です。
しかし、三陸や福島はいいのでしょうか。あそこで蠢いているのは、旧弊にとらわれた法律や制度そのものです。放射能をどのように処理するのかという答えのない問いです。分かりやすいことには過剰に反応するのに、分かりにくくより本質的な問題には黙する、というのはおかしい。もし、市民の立場に立つというのなら、良識を標榜するのなら、署名を集めるのなら、本当に怒る相手を間違えているのではないでしょうか。

オリンピックは短期間のイベントなのだから、無駄遣いをしないようにしてやり過ごした方が良い、という意見もあります。たしかにオリンピックは短期間のイベントですが、世界中の人が東京という都市を目にする機会であり、ただでも誤解されやすい日本という国の本当の姿を理解してもらうのには絶好の機会です。64 年のオリンピック時には、首都高速が造られ、青山通りが整備され、新幹線が通りました。要するに、あのイベントを通して、次の半世紀に渡る発展の下ごしらえをしたのです。自宅に客を招くことになれば、それなりに掃除をし、住まいを整えるのは当然のことです。それがわが国の生活習慣のマ ナーでもあります。これを機会に、東京を次の半世紀に向けて強するのです。 新しい国立競技場は奇異な形に見えるかも知れませんが、これを呑み込んでこそ、次のステップが見えてくるのではないかと思っています。

2013.12.09 内藤廣 



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